自分とつながる世界に思いを馳せよう その② 都立保谷高校でのマジメな思い出
筆不精の人間が、公のブログで「つづく」とやってはいけない
ということを、今回ほど痛感したことはありません。
つづきが書けない=ブログが更新できない!!
日々、さまざまな出会いがあり、学びがあり、驚きがあった…はずなのに、
何ひとつこの場でご報告できないまま、今日の日を迎えました。
更新を待っていてくださった方がいらしたら、大変申しわけありませんでした。
9ヵ月間、後ろめたい気持ちを抱えながら、思いました。
――3月議会が終わったら、意を決して続きを書こう。そして、もう二度と『つづく』とは書くまい…
というわけで、続きです。
地元・保谷高校に通っていた時代に出会った、『現代社会』の先生の話です。
正確に言うと、渋谷先生と私が「出会った」のは、私が小学生の時でした。
当時、親友のお姉さんが社会の先生に習ってきたという話を、ときおり聞かされていたのです。
酸性雨で森林が枯れていく話。
地球温暖化で南極の氷が溶けていく話。
ごみの最終処分場があふれて、新たな土地がどんどん必要になっているという話。
「自分たちがたくさんの石油を使って、ごみになるものをどんどん作り出して、便利な生活をしているせいで、温暖化をひき起こしたり、緑の里山をごみの処分場に変えたりしている。でも、それを自分には止めることができない」
……衝撃でした。
自分たちの当たり前の日常が、何かの犠牲の上に成り立っており、それを自分自身でコントロールすることができない。
――というようなことを小学生ながらに感じ取り、親友と二人、小学校の放課後のベランダで暗~い気持ちになったことを今でもよく覚えています。
(小学生は、大人が思う以上にピュア)
保谷高校に行って、あの社会の先生の授業を受けよう。
そして、この状況をなんとか少しでも解決できるような方策を考えよう。
というのが、私の小さな目標になりました。
そして4年後に入学した保谷高校で、私のクラスの現代社会の担当は奇跡的に渋谷先生でした。
世界の成り立ちについて、戦争と貧困について、資源エネルギー問題について、自然と人間との共存について、差別問題の解消について……教材は、教科書におさまりきらない日々の生活の中にありました。
当時は1987年、チェルノブイリ事故の翌年です。
原子力政策についても、当然のことながら授業でかなりの時間が割かれました。
当時のノートには、
「構造的暴力は、ときに直接的暴力より恐ろしい暴力である」と書かれています。
その頃の自分が、その言葉の意味をどこまで理解していたのかは分かりません。
でも、いま読んでもハッとさせられる言葉です。
私たちのくらしは、すべて、この社会のしくみと深くつながっている。
どこでどう暮らしていても、社会と自分を切り離すことはできない。
ならば、自分につながる世界に、時々は思いを馳せよう。
違和感や疑問は他人事にせず、自分の頭で考え、できることは行動に移していこう。
そのことの大切さを教えてくださった、現代社会の授業に今も感謝しています。